容姿コンプレックスと女の子を育てるということ

たそがれにゃんこです。コンプレックス…誰にでも たいがいはありますよね。背が低いとか、かけっこが遅いとか、学歴が低いとか。そもそも皆、自分のコンプレックスは深刻に受け止めるものの、人が悩んでることには無頓着になりがちだと思うんです。

そんなに悩むほどのことかしら?…と。

たとえば、わたしの夫は音痴です。本人はそれをとても気にしていて、極力人前で歌うことを避けています。でもわたしから見たら

歌が下手でも、どうってことなくない?ジュウシマツじゃあるまいし、人間の雄なんだから、勝負のしどころは、他に山盛りあるじゃない?

と、感じます。コンプレックスって本来、そういうものなんでしょうね。でもそんな中にあっても、女性にとっての容姿に対するコンプレックスというものは生涯にわたって影響を及ぼすやっかいなものになりがちです。


女性にとっての美醜とコンプレックス

本質的に女性は、見られる性だとか。太古の昔より男性は視覚情報で獲物をゲットするので、見た目の美しいもの、動きのあるものに注意をひかれ、追いかける習性を備えている。一方、女性は優秀な遺伝子をゲットしてそれを後世に残そうとする本能が備わっているので、美しくあることはおのずと重要な意味を持ちます。美しくあって、なるべく多くの選択肢から優秀な遺伝子を選ばなければ…と。

そう考えると、美しくあるよう努力することは、生物として、雌として、とても健気なことだと思えてきます。

だからこそ女性にとっての容姿に対するコンプレックスは、とても深刻。うちの夫の音痴コンプレックスなどの比ではないと思ってしまう。

そして、わたしも御多分にもれず、幼いころから自分の容姿に対するコンプレックスに悩んできました。


妹はかわいいのにね…と言われた、あの日

波打ち際
海を見ている幼い少女
幼くても傷つくのに

あれは、わたしが小学1,2年生の頃でしょうか。友達家族と一緒に遊園地に行き、子供たちだけでアトラクションの行列に並んでいました。と、その遊具の係りのお兄さんが、親切にわたしたちに話しかけてくれ、わたしと3歳下の妹を見比べ、

「え?姉妹なの?あまり似てないね?そうか…妹は かわいいのにね」

といったのです。深い意図はなく、何の気なしに…といった調子で。おそらく、その場に一人でも大人がいれば、そのお兄さんもそんな発言はしなかっただろうと思うのです。わたしは内心泣きだしそうでしたが、友達や妹の手前、笑ってごまかしていました。そして思いました。

この人は、子供は傷ついたりしないとでも思っているの?と。

子供心に、自分は器量のよい子ではないと うすうすわかってはいたのです。色は黒いし鼻は低いし、母はいつも、「たかくなーれ」とわたしの鼻をつまんでいましたし。それでも、見ず知らずの人から面と向かって、「お前は不器量だ」と言われたことはショックで、その後のわたしに与えた影響は計り知れませんでした。

それでも例外なく、だれだって生まれ持ったその顔と身体でこの人生を過ごさなければなりません。

その後のわたしの10代の日々は、容姿コンプレックスにガッツリと支配されて過ぎました。


意識は外見に現れる

それでも、そんなわたしでも好きだと言ってくれる異性が現れ、かわいいとか、綺麗だと言ってくれる人が出てくると少しずつ自分に対する意識は変わっていきました。ちょうどそれまで違和感しか持てなかった実家を離れ、自分の居場所は自分で決めると決意したのも、この頃でした。

そもそも生まれ持っての顔立ちというものは美容整形でもしない限り変えられませんが、それとは別に心のありようが外見に大きく影響すると思うのです。

例えば、卒業後20年たってからの同窓会で。小学生のころ、クラスでとびきり可愛かった女の子が、あれ?なんか普通?って感じになってたり、逆に子供のころは平凡な女の子だったのに、すごく素敵に洗練された女性に成長していたり。

それは、会わずにいた20年間の、それぞれの生きざまがきっちり外見に現れているから。もっと詳しくいうと、どんなふうに自分自身を扱ってきたか…が外見に出ているから。

意識は外見に現れます。

特に自分で自分をどう見ているか、セルフイメージが如実に外見に現れます。なので自分のことを綺麗だと思えるように、自宅には うぬぼれ鏡を置くといい。美肌効果などの写真加工アプリも使って奇跡の一枚的な自撮り写真をスマホに保存するなりして普段からそれを目にし、綺麗な自分を当たり前のこととして心の中に標準装備する。

そうすることで外見は意識にひっぱられて、よりイメージの自分に近づいていく。

だって誰にもあなたの美しさは測れないのだから、自分で美しいと決めてしまえばいいと思う。美しい自分を選択する。

海を見つめる大人の女性
決めるのはいつも自分

それでもどうしても自分を美しいと思えないなら、美容整形もありだと思います。それだって自分が美しくあることを選択した結果だから。


わが子の外見を褒める

わたしは2人の子供たちがまだ幼いころ、意識してわが子の容姿を褒めまくりました。男の子と女の子をひとりずつ授かりましたが、両方を隔てなく褒めました。

最近は、褒めすぎ育児に警鐘を鳴らす向きもあるようです。つねに褒められているばかりだと、打たれ弱い子になってしまうと。たしかにバランスの問題だと思います。褒めて甘やかして、子供を世界の中心に据えてしまうと、その子は外の世界に向かっていく準備ができません。親にとって育児の最終目標は、自分たちが亡くなっても、次の日からなんとかかんとか、生きていけるようにわが子を鍛えておくことだと思います。

そして矛盾するようですが、そのために必要なことのひとつが、わが子の外見を褒める事だと思います。

何かをがんばったから…上手にできたから…そのような条件付きで褒めるのではなく、ただただ

「○○ちゃんは、本当にかわいいね、世界一かわいいよ」という一言は、

「あなたの存在自体が、大好きだよ」

という強烈なメッセージになって、わが子に届きます。客観的にみて不器量でも何でも構わない、親だけは自信を持って良心の呵責なく、あなたは最高にかわいい!!と言えますから。

そして自分の存在自体を愛されている…と感じて育つことで、その子は外の世界に対峙していく力が付き、自分を大切に扱うことで、人にも優しくなれると思うからです。

そうして育てたせいか、成人した娘は

「わたしは、美人じゃないけど、とても愛らしい」…と言い切り、

前髪を切りすぎて出社したとき、職場の同僚から 「それ、大丈夫?あってる?」と聞かれて

「あってる!完璧!!」…と答える自己評価の高い娘になりました。

と、同時に彼女は周りには隔てなく親切で心根の明るい女性に成長しています。わたしの未知の世界で働き、どんどん新しい経験を積んでいる彼女を見られるのは、幸せなことだと思ってます。

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